修士卒の文系修士「これ何の意味があるの?」

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こんにちは! べんとうです。

僕は、教育系YouTubeチャンネル「カサニマロ」を運営している、京都大学大学院に背伸びして入学した修士1年の者です。

今日のテーマはこちら!

お題

修士卒の文系修士「これ何の意味があるの?」

僕もこの悩みにぶち当たってしまいました。

同じような悩みを抱えている文系大学院生の方も多いのではないでしょうか。

また、「もともと博士課程に進んで研究者になるつもりだったけど、修士卒に切り替えようと考えている」という人も、同じような悩みにぶち当たると思います。

良ければ、最初から最後まで読んでいってください。

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「就職につながらない研究」:どう人生の軸と結びつけるか

人生の軸。

就活をしていく中で、自己分析によく登場する概念かもしれません。

しかし、人生人生と言えど、僕らは社会を経験したことがありません

なけなしのアルバイトの経験が僕らで言う社会経験なのかもしれませんが、これっぽっちのことで人生なんていうマクロなものを想像できるはずもありません。

だからこそ、「人生の軸」というのは「仮説」程度にとどめておいて、今後の経験によって反証されることもあるような、緩い軸を設けるといいのではないかと。

その意味で、人生の軸とは、植物の茎のようなもので、太陽――すなわち目標や人生の意義――の位置が変わるたびにちょっとずつ揺らいでいってもいいのではないかと、

そういう風に思うわけです。

取り急ぎ、二酸化炭素を気孔から取り入れ、土から養分を取るかの如く、目の前の経験に一生けん命になれば、いつか太陽は差し込んでくる

むしろ、光合成や養分の吸収が、人生の軸を持ち続ける必要条件なわけであるから。

人間にとって退屈は非常に毒である。
そして、時には忙殺されているのに退屈なこともある。このケースにおける退屈さは、その対象に意義や目的を感じないことに由来する。

だからこそ、仮にその対象の意義や目的について「仮説」を立てることから始めてみよう。

数珠つなぎに、人生という大きな目的の「仮説」も立つかもしれない。

結論は出ねども、仮説は立つ。それが人生。

研究者にならない人の研究の意義

この間、就職活動でグループディスカッション練習をしていたときに思ったのが、

議論での頭の使い方と、研究での頭の使い方は似ているな」ということ。

もっと厳密に言うと、議論は「仮説を立てる」ために行うことが多い(気がする)。

したがって、論文で言う「序論」「仮説」「方法」くらいの項目は、議論においても同じ構造を持つ。

そして、企業に就職したり、事業を立ち上げているとき、仮説を基に、実際のビジネスを行うと思われる。研究で言うと、これが「結果」「考察」の源になるものである。

就活で言うならば、論文執筆の「仮説を立てる」という部分までしか役に立たないような気もする。

実践を行って、PDCAを回すところまではいかないことが多いからだ。

しかし、仮説を立てることだけに執着して、実験の方法や結果、考察の部分を深く考えることを放棄するとき、「思考だけして、行動を行わない、頭脳系ニートへの沼」という太陽に自分の茎が向いていることを自覚したほうがいいかもしれない。

実際、僕も仮説を立てたり序論を組み立てたりするところまでは割と面白い。

しかし、それを立証するための方法を考えたり、結果を分析することについて魅力を感じないという性は、将来的にも直したほうがいい僕の欠点ともいえるだろう。

その欠点をたった2年で直せるとしたら、大学院での研究は相当に有意義な自己投資だと思う。

結論、修士卒にとっての文系大学院とは、「仮説を立てる議論の力+それを検証する行動力」を、効率よく鍛えてくれるような最強のビジネススクールに過ぎないということである。

だからこそ、研究や課題のすべてを、「なんとなく将来必要なスキルと通底するはずだ」という信念で、ダラダラ「作業」として進めてしまえばいい。

皆が「仕事としてやる」ことを「遊びとしてやる」つもりで

僕の身の回りには、修士で卒業しようなんて言う人はほとんどいない。

皆、博士課程に行って、研究者を志望している。

だからこそ、その空間に居心地の悪さを覚えることも時折。

しかし、僕の強みは「研究が仕事にならない」ことなのかもしれない。

楽しみでやってたことに対価がつくようになると、それへの魅力が減ってしまう

好きで絵を描いていた子供に、絵に対するご褒美を上げるようになると、子供は絵を描かなくなってしまう。

僕には、そのリスクがない。

無論、皆が持っている義務感という武器は、僕にとってあまり当てにならないものなのであるが、
気楽にやればいいや、っていう気持ちはそれに代わる武器になると思う。

僕はみにくいアヒルの子である。研究能力は甚だ無いけれども、「アヒル」時代に培ったなけなしの研究能力が、ハクチョウになったときにちょっとは役立つかもしれない。(ここでのハクチョウは、アヒルの上位の存在として取り上げたのではなく、単純に別の種族という意味で比喩っているつもり。)

もっとも、「気楽にやればいいや」っていう気持ちを武器にするために、「僕の研究における面白い部分はココ」というのを、言語化できておく必要はあるだろう。

正直、僕が掲げているリサーチクエスチョンについて、最近疑問にも思わなくなってしまった

Aを発見したい」という気持ちが、「Aを発見して何になんねん」っていう気持ちになってしまった。

でも、僕でさえお前だけだよそんなことに興味持ってる奴」っていう風に思うくらい、意味わからん研究しているわけだから、紀要でも何でもいいから論文掲載を達成することで、最大の生きた証は残せるかもしれない。

カサニマロで発信している内容は、世にある既存の知識や哲学を僕らなりに再翻訳しただけのことだけど、研究で見つけようとする知見は、0を1にする価値がある

もちろん、価値の絶対値を考えれば、1を1000にした方が999の価値がある

カサニマロで自分の考えを発信することに慣れていると、こちらの価値に溺れがちになるが、

0を1にすることにも何かしらの価値がある。

そういう宗教に自分自身をいざなって、とにかく2年間信仰し続けるしかない。

だからこそ、「研究者教」に入信しよう

教義は以下の通りである

✅1:研究を通して、5年分の社会人経験に等しい論理的思考力」と「仮説検証力」が身につく。

✅2:自分の研究の意義は、自分にすら意義がわからないことにある。簡単に意義がわかるような研究をやった方が世のためかもしれないが、モチベーションの湧かない研究にこそ、自分が生きた証を世に刻みつける絶大な力がある。

✅3:「元研究者」という称号を得るために修士を全うする。「元研究者」という称号は、将来的に自分に学歴や年収以上の付加価値をもたらす

この辺にしときましょう。

コメント

  1. chika より:

    「文系は博士号取得5、6年かかるの当たり前でしょ?」ってノリの研究室が今もちょいちょいあるらしい。(昔は多かったそう)
    これから行く人、特に博士も視野に入れている人は「博士課程の取得年数の平均・目安」は聞いた方がいいと思います。もちろん理系も

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