本文
思考実験としてテレポーテーションを考えてみよう。
A地点で移動開始し、自分はバラバラに分解され、その成分が解析され、
B地点にて、さっきのA地点での自分と全く同じ身体が出来上がるとする。もちろん記憶も引き継がれる。テレポーてション先でさっきまでの体はバラバラになったことを聞かされるかはどちらでも良い。
A地点での作業は何の痛みもなく一瞬で終わるので、気づいた時にはB地点にいるものとする。
こう聞くと、「A地点での私はがいなくなってしまうのが嫌だ」という意見と「結局B地点で自分がいるので問題ない」というとりあえず意見の2つがありそうだ。
これは「A地点で私が死んでしまうのは倫理的に問題になるか」という込み入った話ではないし、「嫌な感じがするとしてもテレポーテーションは便利だから使うかどうか」という単純な話でもない。1
「新しくB地点で私は作られるけどそれはやっぱり別人かどうか」「オリジナルの私がA地点で死んでしまうのが嫌かどうか」という話である。
実は私はこの問題は人間・生命体の捉え方の前提の違いに依存するのではないかと思ってる。
「肉体や血流、脳などの電気信号の状態を完全に再現してしまえば、それはオリジナルの自分である」という意見(前提)を認めるかどうかで、結論が変わるのではないだろうか。ちなみにこの前提の違いは「何色が好きか」のように本能的・感覚的なものに依存するであろう。よって、このこと2を認めれば、A地点にいた自分とB地点にいる自分は同一人物であり「嫌さ」はないという結論になる。認めなければ、今いる自分は結局いなくなってしまう点が嫌であるという結論になる。
問題
問1
下線部1に関して、本文の主題と比べてどのような点で前者は「込み入って」おり、また後者は「単純」であるのか1点答えてください。
問2
下線部2が示す内容は本文中のどの部分でしょうか?本文からそのまま抜き出してくだい。
問3
「つまり、誰かが時間を停止させ、その間に私がA地点からB地点に運ばれ、気づいた時にはB地点にいるのと等しい。」
この文章を本文に挿入するとしたらどこでしょう?
解答
答1
前者:本文の主題は自分1人がどう感じるかの問題だが、倫理的な問題の場合だと、自分だけでなく社会的な要素がある点。
後者:本文の主題では「嫌さ」があるかどうかや、「嫌さ」の出どころを議論する必要があるが、後者ではそれらの議論の必要がない点。
(補足:後者の場合、嫌でなければ便利なので使う。嫌ならばその嫌さを我慢してでも便利だから使うかどうかだけである。「嫌さ」があるかどうかは議論していない)
答2
「肉体や血流、脳などの電気信号の状態を完全に再現してしまえば、それはオリジナルの自分である」という意見(前提)
(「ちなみに、、、、」の部分は結論に直接関係がなく、下線部2に代入する必要がない(認めるかどうかが結論に影響しない)。書く必要がないだけなら書いてはいけないというわけではないので、書いてもいいことにすると、不要な文章(本文の前半など)をいくらでもつけて良くなることになってしまうので、この問題ではやはり✖︎とする。)
答3
よってこのことを認めれば、A地点にいた自分とB地点にいる自分は同一人物であり「嫌さ」はないという結論になる。(ココ)認めなければ、今いる自分は結局いなくなってしまう点が嫌であるという結論になる。
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